アートスペース・オーの115回は、漆原さんと迫さんのベートーヴェンのヴァイオリンソナタ。漆原さんのベートーヴェンはハッタリを利かすものではなく、真摯な音楽的取り組みからのベートーヴェン。磨かれた音と素直な表現。今、漆原さんは何に興味がいっているのだろうか。
曲はベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、5番・8番・9番。ファンにとっとは大変なご馳走のプログラム。
“スプリング”と題する5番は、いかにもやわらかい春の楽想から、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタの典型的パターンのモデルのような作品。しかしこれはモーツァルトのヴァイオリンソナタk293-a(301)、或いは古典的なヴァイオリンソナタの型を踏襲した作品といえる。その分美しく安定感があり、おとなしいが均整がとれている。対して“クロイツェル”と呼ばれる9番は、ベートーヴェンの心的世界というか、一種の芸術観を披瀝した世界であり、ワクの中で表現された5番と比べて言えば、ワクの外にはみ出ている。
或いはワクをもっと大きくしてしまった曲である。その狭間にあるのが8番。だからこの順で聴くと、当たり前だが、納得のいく順序なのである。ある型を抜け出したくて、8番では、フツフツとべートーヴェンの色というか、魂というか、燃えたぎるものがマグマだまりの中でグツグツと音を立てている。
この曲順はまた次のことともぴったり符合していて興味深い。ベートーヴェンは1802年に遺書を書いている。例の“ハイリゲンシュタットの遺書”だ。この年にヴァイオリンソナタの8番は書かれ、5番は1800年、 1803年に9番を完成している。この遺書には耳の不具合の悩みが書かれている。
ベートーヴェンの音楽的成長(或いは変化)と自殺を考えた一大危機。それは耳の病もあったろうし、恋愛を含めた人間関係もあっただろう。だからこそこの選曲は続けて聴くととても面白いのである。更にまた、或いは今後幾度となく、このプログラムで漆原さんのベートーヴェンを聴きたいものである。