第106回のアート・スペース・オーのコンサートは児玉桃さんのオールショパンナイト(最後にペルトの作品が一つ)。
プレレコーディングリサイタルとあって、さすがにミスタッチなぞほとんど無く、完全なる璧だった。曲は、即興曲の第1番〜4番、スケルツォの第3番。後半が、3つのエコセーズ第1番〜3番、ソナタの第3番、そしてペルトのFur Alina。
世にショパン弾きという演奏家は山ほどいて、またその研究も伝記も数多くある。また“ショパンの曲”というイメージは我々聴き手も“こういうもの”と勝手に作り上げているところがあるように思う。しかし本当にそうだろうか。そんなことを考えさせる演奏だった。児玉さんはまず楽譜と格闘する。今までの概念や習慣よりも、ショパンの最初の楽譜を音にしたい。そんな思いが明確に表れた、真正面からまじめに取り組んだ演奏だった。そして児玉さんのショパンの世界を、そう、独特のものを表現していた。
音の作り方も所謂華麗で絢爛というアプローチよりは、むしろ野太い響き。決して派手に効果を狙ったものにはしない。そして感傷的にはならない。即興曲の第4番などもそう。緻密な音の組み立てでショパンを構成しようという感じ。
何故今回ショパンなんですかとお聞きしたところ、児玉さんご自身どうしてもショパンはレコーディングしたいと温めていたものとおっしゃっていた。おそらく多くのピアニストにとってショパンは先ずもって目指す峰の一つ。そこに児玉さんは独自のルートを切り拓き、誰のものでもないショパンの世界を構築しようとしているという感じがした。
最近演奏会でよく感じることの一つに、19世紀的音楽観とその反動ということがある。20世紀前半までで一つの演奏スタイルや作曲家へのイメージというものが定まってきて、現在はそれでいいのかと違ったアプローチをする人が出てきた。勿論楽譜主義というのは昔からあって、先ず楽譜ありきというのは考え方としては真っ当だと思う。ロシア物にはそのイメージを期待したり、ドイツ音楽はこうあるべきだというものは、結局作曲家の個性でしかないし、ドイツ人が皆ドイツ的というのも変な話ではある。しかし大きく観て○○風というものがあることも事実。そこを楽しむということも音楽の楽しみの一つでもある。ただ、現在の演奏家は児玉さんもそうだが、ある部分インターナショナルな環境で育っている。音楽自体世界共通語であって、特定の民族しかわからないものは残りにくい。方言の無い世界に突入している。しかし、しかし、と、ちょっと立ち止まりたい気がする。スタンダードとそうでない物という対比と、スタンダードと没個性は意味合いが違う。最近はどうもインターナショナルの弊害が没個性(というよりも弱個性)に陥る危険性も持っているように思う。勿論聴き手の耳の問題もあって、単に私の過去を引きずる量が長くなったからという部分もあるだろう。過去の名演奏家の方が聴き慣れているという事もある。しかし、どのようなアプローチにせよ、音楽自体が人の心を動かす、ちょうど血液が逆流するような思いに出会えないとすれば、それは問題である。現在の傾向もまた一つの流れの中の一時点。「不易と流行」ということで言えば、流行は追って楽しい。個性もその内。大いにいろいろなものに出会いたい。そして不易は、いつも音楽を聴くときの中心にいてくれるものであって欲しいと思う。