今までのコンサートの記録

第110回コンサート
セルゲイ・ハチャトリアン ヴァイオリンリサイタル
SERGEY KHACHATRYAN Violin Recital
ピアノ: ウラディミール・ハチャトリアン
Piano: VLADIMIR KHACHATRYAN
2004. 6. 5(土)
Sat.,Jun.5.2004
プログラム
W.A.モーツァルト: ヴァイオリン・ソナタ ホ短調 K.304
L.V.ベートーヴェン: ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調「スプリング」 Op.24
J.S.バッハ: ヴァイオリン・ソナタ 第2番 イ長調 BWV lO15
S.プロコフイエフ: ヴァイオリン・ソナタ 第2番 二長調 Op.94bis
コンサート寸評

ASO第110回コンサートは、アルメニア生まれの18歳(誕生日過ぎなら19歳)ヴァイオリニスト、セルゲイ・ハチャトリアンのリサイタル。ピアノは父親のウラディミール・ハチャトリアン。

 このごろの若手の技術力は完全無比を絵に書いたよう。ほとんどミスは見当らない。彼もまた抜群のテクニックを充分に備えている。それだけでも大変なことだが、近年の技術ラインが高くなっているので、ここからが勝負どころ。何を本人の十八番にするのか。まだ何の色にも染まっていない無限の可能性を秘めた状態という感じ。従って今日の演奏会の組み立ては父親の音楽に依っている。父親のピアノの方は既に型を持っていて(大きいか小さいかは別にして)、自らの表現方法(スタイル)も確立している。

 曲は前半がモーツァルトのヴァイオリンソナタホ短調k.304、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタNo.5ヘ長調“春”、後半はバッハのヴァイオリンソナタNo.2イ長調BWV1015、プロコフィエフのヴァイオリンソナタNo.2ニ長調。

 聴いてみての率直な感想は、やはり古典は難しいということ。弾くという点ではとても楽にクリアできているのだろうが、聴かすとなると、まだまだ違った要素が加味されていかねばならないのかなと思う。また、プロコフィエフについても、この難曲を物にしていくには、様々な読み込みがいるのかもしれない。まだまだに詰まっていくところがあるかと思う。一番素直に聴けたのはバッハか。勿論宗教的なとか、奥深いものというところではないが、ある意味で正確な技術に裏打ちされて、美しいグァダニーニの柔らかな音色に乗って、ストレートなバッハを聴けた。こういう観点ではバッハという作曲家は懐が大きいといつも感心してしまう。設計図とか、遺伝子構造とか、化学式の最たるもののような特殊な世界観を持っている気がする。

 ところで、最近の批評で、「さすがにロシアの人だから」というような評を目にするようになった。昔は良く見かけ、最近まではほとんど目にしなかったフレーズ。また復活なのかとも思う。しかし、昔ならいざ知らず、近年そういうことで音楽や芸術を理解しようとするのはちょっと?という気がする。例えば、日本の西洋音楽家が皆日本民謡に精通しているとは思えない。海外でも小さい頃から、いろいろな先生に師事して、腕を磨き、様々な言葉も話す。グローバル化の極致であり、ほとんどのものがインターナショナル、悪く言えば単一価値観が世界を席巻している。勿論その国のことばを話しているということは、決して音楽上、どこの生まれだから、ということに無関係だ、ということはないにせよである。(だから評論家には無責任な批評をしないで欲しい。)

 多分これからの音楽は、少し我々が大切に思ってきたものと違う、別の世界になりそうな気がする。それは、きわめて個別的な、かってな解釈が喜ばれる時代になってくる。今までとの違いに価値を置く時代になりそうだ。それでもやはりペーパーに残してくれた作曲家の天才を追い求めて、その作業を客観的に突き詰めてくれる演奏家に出逢いたいと最近強く感じるのである。

(2004.6.5 松井孝夫)