今までのコンサートの記録

第141回コンサート
吉野直子 ハープリサイタル
2008年10月19日
プログラム
D. スカルラッティ: ソナタ イ長調 K.208 (L.238)
  : ソナタ イ長調 K.113 (L.345)
O. レスピーギ(M. グランジャニー編): シチリアーナ〜リュートのための古風な舞曲とアリアより〜
A. ロゼッティ: ソナタ 第4番 ト長調
J. de ラ・プレール: 雨にぬれた庭
M. グランジャニー: 戯れる子供たち 作品16
吉松 隆: ライラ小景 (2006)
C. ドビュッシー(L. ラスキーヌ編): ロマンティックなワルツ
C. ドビュッシー: 亜麻色の髪の乙女 〜前奏曲集第1巻より〜
J. ブラームス(T. マーヴィヒル / 吉野直子編): ラプソディ 変ホ長調 op.119-4


コンサート寸評

世界を舞台に活躍する吉野さん、久々のASO登場!いつ聴いてもきわめて質の高い音楽を創造する超一級の演奏家。心から音楽に浸れる一晩を過ごすことが出来た。

今宵の献立は、スカルラッティのソナタ、イ長調のK.208とK.113、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」からシチリアーナ、ロゼッティのソナタ第4番、ラ・プレールの「雨にぬれた庭」、グランジャニーの「戯れる子供たち」。後半が、吉松隆の「ライラ小景」、ドビュッシーの「ロマンティックなワルツ」「亜麻色の髪の乙女」、最後にブラームスのラプソディ変ホ長調。

多彩なプログラムだが、いつものように難なく、というよりも軽々と、というよりも、ごく自然に流れるがごとく、且つ中味の濃い演奏だった。また、今回は今までとは違った面も見せてくれたようにも思う。先ずハープの音量も豊な感じがした。勿論今までも良く響いていたが、はっきりと今までより豊だという感じがした。そのため音楽が、厚い響きとなって会場を満たした。また、世界のトッププレイヤーとの共演や、若い人たちへのメッセージをこめて、高校生らとともにコンサートを創るなど、音楽活動への明確な意識を持っての取り組みが、一段と違ったものを感じさせる演奏にも繋がっているように思う。完成度の高い演奏家が、時間とともに更なる熟成をしていくのを、間近に見られる感じ。そういう意味でも、とても幸せな音楽スペースという感じだ。野球の大リーガーのホーム球場のファン同様、ASOに登場する常連プレーヤーは、その時々の変化まで、聴衆の大切な音楽体験の記憶に刻まれる。今回の変化が、また今後どう変貌していくのか、またまた興味をそそることになる。

私的な好みを言えば、とりわけ古典に属するものは、音楽そのものに型があり、その型は、人間の耳に最も心地よく響くものの追求だったはずで、作為のない演奏のほうが好きだ。その制約の中で、いかに瑞々しい演奏をするかということは、楽譜どおりでありながら、なおそのとき生まれた新しい作為が、何度聞いても美しく感動を呼ぶように演奏するという、相反するものを表現することになるのかもしれない。

以前何かで読んだ話に、ピアニストのイングリット・ヘブラーが、ある批評に悩まされたというのを思い出す。それは、彼女の端正な演奏を、「ただ楽譜を音に替えているだけに過ぎない」という批評で、音楽には演奏家の個性や作為がもっとあっていいとするものだった。結局彼女は自らの演奏スタイルを貫いたし、実際、作為のない演奏などというものは、本来ありえない。音と音の離れ際、一瞬の間、テンポ感、フレージング等、全くヘブラーでなくては出来得ない、格別の技術と音楽による表現だと思う。あまりにも当たり前に、美しく流れる音楽に、その創造性と高い技術の裏づけを感じさえすることが出来なかったということだと思う。もちろん表現の幅をどこに据えるかという意味では演奏家それぞれが違う。その軸足は、作曲家に対する思いによるような気がする。曲を絶対視する立場ではないが、素晴らしいものをどこまで“そのもの”で表すことができるか、或いは、“そのもの”と紛うように聴衆を惹き込むかというのも、きわめて優れたごく一部の演奏家のみがなしえるもののように思う。そもそもそういう感じを最初から持ち合わせている吉野さんなので、更なる境地に入っていくことを熱望して次の登場を心待ちにしている。

(2008.10.19 松井孝夫)