日本経済新聞1999年3月23日(火曜日

草の根室内楽 感動響く ◇個人会暢でコンサート、演奏者と一体感演出◇

大橋喜昭

nikkei1.gif クラシック室内楽の楽しみの一つは、小さな会場で演奏者と一体になった空気を味わえることにある。しかし、日本のコンサートホールはどれも立派かつ大きすぎて、演奏者との一体感を感じにくく、最近では高くてチケットの入手もままならない。

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国際的アーティストも
私が脱サラして始めた東京・町田のギャラリーを使い、小さな室内音楽会を催し始めて十年目になる。これまでチェロの堤剛さんやピアノのM・アルリゲツチさんら国際的に活躍するアーティストに出演してもらうことができ、この草の根クラシックコンサートは七十回を超えた。
私のギャラリーは百平方寸程度の広さで、百人も集まればいっぱいになる。演奏者は個人的にお願いすることもあるが、たいていの場合は音楽事務所を通じて細かい条件を打ち合わせる。もちろん曲目は室内楽に限定。チケット代はなるべく低く抑えて五千円から六千円だ。経費節減に努めているが、赤字になってしまうことも多い。

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息づかい伝わる広さ
演奏日の当日は一人で何でもこなさなけれはならない。リハーサルの立ち会いから舞台のレイアウトや照明のセット、駐車場の準備、入場者の応対からモギリ係まで引き受ける。
聴き手に人気のあるのは断然モーツァルトで、続いてバッハ、ベートーベンの順だ。ここでは、演奏者から最前列の聴き手まで二メートルの距離もない。演奏者のちょっとした表情や微妙な息づかいを、聴き手は感じ取ることが出来る。厚さ六十センチの遮音壁のほかには特別な音響装置を用いていないが、広さが適当なのか、演奏後にアーティストから「いい会場だった」と褒めてもらったことも何度かある。
私が室内楽の面白さに目覚めたのは七〇年代の初めに遊学中、ロサンゼルスで演奏活動していたバイオリニストの亀井由紀子さんの家に度々招かれてからだ。十数人の友人と亀井さんたちの室内楽に耳を傾け、演奏後に感想を述べあったりするホームコンサートを何回も経験させてもらった。
八八年に会社を辞めて個人ギャラリーを開いた時、家庭的な音楽会を日本でも開きたいと思い立ち、九〇年二月にバイオリンの漆原朝子さんを招いて第一回を開くことが出来た。これまで五十四人の外国人アーティスト、五十九人の日本人アーティストがこの小さな会場で演奏してくれた。

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聴き手にも気配り
コンサートの準備には苦労が多いが、舞台裏の姿を知る楽しみもある。米のE・アウアーさんは約三十カ国で演奏している国際的なピアニストだが、リハーサルと本番までの間、横たわって休息を取るという。私は当日までその習慣を知らなかったので、慌てて簡易ベッドを探し回らなければならなかった。
ロシア出身のハンサムなピアニスト、P・ドミトリエフさんは今年二十五歳とまだ若く、日本国際音楽コンクールに優勝したこともあって日本のフフンも多い。実はかなり愉快な若者で、本番直前になって靴下を忘れたことに気付き、私は近所のコンビニエンスストアまで買いに走らなけれはならなかった。
海野義雄さんのバイオリン演奏では、途中で一回、演奏が中断してしまった。聴衆がパンフレットをめくる時のかさかさという音が耳につくという。そこで聴き手に注意を促し、再演奏をお願いした。この経験から、その後は事前に聴き手に注意することにした。
時には、アーティストの方から演奏の話を持ち掛けられることもある。九〇年のモーツァルト没後二百年記念で来日していたウィーン木管八重奏団の場合は、モーツフルトの命日の十二月五日を休養日に充てていたのだが、是非演奏したいという。そこで急に私のギャラリーで、コンサートをしてもらうことになった。告知も出来なかったのに、百人を超える聴き手が集まった。この時の「セレナード第十一番K三七五」は忘れられない。
無論、苦労することの方が多い。アーティスト本人に出演を了承してもらっても、音楽事務所との交渉段階で不調に終わることもあるし、演奏に大きなフル・コンサート・グランドピアノを要求されあきらめたこともあった。しかし、室内音楽会の魅力に取りつかれた以上、もうやめられない。
二〇〇一年にコンサート百回を果たしたいと思っている。

◇◇◇◇◇ (おおはし・よしあき ギャラリー経営)

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